第3話 晴れて就職

晴れて就職先が決まった私は、港区にある大手電機メーカーへ出向する前提で社内教育を2週間受けることになった。

2週間教育を受けた後は、大手電機メーカーへ晴れて出向である。

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初めての社内教育

社内教育は退屈だった。

教育とは名ばかりで、先輩方が出向している会社からもらったビジネスマナー集のようなものを大量コピーし、教材にしていた。

それでも、一生懸命やろうという手作り感の様なものが伝わってきたので、ありがたいと思った。

でも結局、会社を辞めるまで、その先輩方とはその後一緒に仕事することはなかった。

何故なら、その後は出向先に散々になってしまったからだ。

50人しかいない会社でその当時の新人が私を含め4名だった。

4名の新人は、同じ専門学校の出身であるが全く違う課の出身者で面識はなかった。

教育は毎日行われ、課題もブレーンストーミング的な課題もあり議論するにあたり、面識がなかった者同士距離があるとやりにくい面があった。

こういったとき距離を縮めるツールは、今も昔も酒が一番だ。

飲めば、若いし理想もいっぱいあったから、教育が終わった後は同期の4人で飲んだ。

いつしか教育も楽しくなり、あっという間に教育の2週間は終わった。

配属先が決まった

2週間の教育が終り、いよいよそれぞれの配属先が決まった。

4人の配属先は・・・どうなったのか・・・

 

結果は2人は会社の中の業務を。

私を含む、もう1人の同期2名が大手電機会社への出向が決まった。

しかも専門学校では修理しか勉強して来なかったのに配属先はバリバリのハード設計部隊!

やっていけるのか俺???

 

実は会社では教育中に誰がリーダー格で社交的な人間で「外に出しても恥ずかしくないか」を見られていたようである。

ちなみに自社で仕事をする人間は、出向先に行った先輩方から仕事を発注してもらい自社で作業し、納品する役目だった。

いうなれば完全に受け身の作業。

この配属が、その後の私の人生を大きく左右することになる。

いざ出向先へ

いざ!出航!!ではなく出向である。

場所は東京都港区。

埼玉県の田舎地域出身の私からは未開の地である。

東京タワーが間近に見える環境に興奮し、仕事が出来なくても満足である。

本当に大事なのはロケーションじゃなく、仕事の内容なんだけど・・・

その当時の私には全く理解できていなかった。

 

とにかく出向先に初出社。

出向先には、私と同期のA君と同じ部門に配属された。

出向先の2年目の新人が私達の面倒見役および会社の歩き方を教えてくれるようである。

挨拶も早々に、同期のA君が出向先の社員と仲良く話し始める。

その瞬間、お互いライバル心が芽生えてきた。

こうなったら、どちらが早く出向先の社員と打ち解けられるか勝負である。

初日はA君が、うまくやり出向先の社員と打ち解けられ一歩リードされた。

出向先の職場でも、どっちが有望かひそひそ話されていたようである。

 

そんな中、初日が無事終り出向先の社員のすぐ行ける人だけで簡単な歓迎会(単なる飲み会)が始まった。

ここでもA君は明るく楽しいやつというキャラ作りに成功し、出向先社員との距離を縮めることに成功する。

私はといえば、黙々と飲むだけで出向先の社員からお酌していただくだけ。

しかも、調子にのって高校生のころからバイク(400CC)に乗っていたことや改造車の話などして元ヤンのイメージをつけてしまった。

マズイぞ私!

翌日、会社に行ったらA君はもう出向先の先輩と楽しく朝から会話し社員に気に入られ、先輩と「実験室のお手伝い」に回された。

 

私はと言えば、設計部に配属されたのに製品の仕様書をデータベースに入力する仕事を仰せつかった。

データベースで何をするかというと、パソコンを自作で作るイメージしてもらうと分かりやすい。

パソコンは見た目1つの製品であるが実際には大きく分けて「PCケース」「マザーボード」「CPU」「メモリ」「ハードディスク」「電源」などを購入して組み立てる必要がある。

企業がこれらを組み立てる場合、調達部門は設計部が選定した「PCケース」や「マザーボード」の購入仕様書に従って部品を購入し、工場で組み立てる。

その内に、製造中止の部品が出てきたり、不具合がある部品などは、部品選定を再度し直して一から検証したりと、設計部門も終わりがないのだ。

そうすると仕様書なども都度,

書き換える作業が発生する。

書き換えたら、データベースに購入仕様書と図面を関連つける「図面番号」なども入力し管理していた。

1992年頃の話だから、Windows 95も当時していないし、AccessやExcelなどが登場するのはまだ先の話である。

パソコンの役割はまだそれほど大きなことが出来る訳でもなく、データベースの構築のみで

機種ごとの仕様書番号や図面の番号を管理するために導入していたのだった。

それ以外の文書作成などはワープロが担うことになっていた。

当時のワードプロセッサー(通称:ワープロ)は

Windows3.1なるものは存在していたが、その当時はPCは高価でありデスクトップでも30万以上、ノートPCなら白黒の液晶で50万、STN(カラーでも階調が少ない液晶)で50~60万、TFT(256色以上の液晶)で80万円はしていたと思う。

そんな状況だから、いかに設計部と言えどもパソコンはまだまだ高嶺の花。

なので現在のようにWindowsが世の中に普及していた訳でもなく、まだまだMS-DOSの時代。

しかもマシンはNECのPC98シリーズ。

それでも、新し物好きな先輩が何とか工面した設計部に1台しかないパソコンを私に使わせてくれた。

本当の理由はそうではなかった。

単に自分の会社のプロパー社員は設計など高度な仕事をさせるために、出向者である私に、面倒で手間のかかかる仕様書データベースの構築をやらせていたのが実態だった。

考えてみれば至極当たり前な話。

 

それでも新人で何も知らない私は、一生懸命データベースの構築にいそしんだ。

私のパソコン占有率は80%以上、他の人が使うのは仕様書データベースを参照するときだけ。

そうしていくうちに、プロパー社員でも技術サポートをしてくれる先輩が出てきた。

実現したいマクロを組む場合の本を貸してくれたり、パソコンとは何たるかを知らない私に丁寧に教えてくれる先輩がいたりで私のパソコンへの知識が飛躍的にあがった。

半年後、A君はどうなったかというと連日の飲み会で疲れ、実験室が昼寝の場となっていた。

技術も盗むこともできず、勉強の仕方もわからず半年前と何も進歩していなかった。

A君には最初にガツンとやられたが、私がどうやらコツコツと積み重ねて行った結果、周囲の評価は飲み会だけ元気なA君とやる時はきっちりやる私とで完全に分かれていた。

当然、私もプロパー社員の先輩方と仲良くなり、仕事もプライベートもみんなで楽しく旅行するまでになっており、充実した生活を送っていた。

まさかのA君が消息不明に

ある日、A君が会社に来なくなった。

3日目に心配した出向先の先輩方が私に聞いて来た。

A君どうしたの?知ってる?

知るわけない。

私はA君の保護者でも何でもない。

同じ会社と言うだけでA君と一緒にされたくないと言う気持ちが常にあった。

彼はお調子物で仕事は出来なかったが、周りに溶け込むのが早く、私には無いものを持っていたので嫉妬していたのだと思う。

今にして見れば小さな事だが、ライバル心がそうさせていたのだろう。

この話は、後に想像しない事件に発展して行く事になる。

【つづく】

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